大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和55年(オ)469号 判決

上告人

青柳多右衞門

右訴訟代理人

脇山弘

脇山淑子

被上告人

齋藤ゆき

右訴訟代理人

津田晋介

主文

原判決を破棄する。

本件を仙台高等裁判所秋田支部に差し戻す。

理由

上告代理人脇山淑子の上告理由第二について

原判決は、上告人が本件農地の買主として売買契約を履行するために上告人所有の農地を売却して手附金を除いた残代金支払の準備を整え、再三にわたり売主である被上告人に対し履行を催告したから、上告人は民法五五七条一項にいう「契約の履行に着手」したものであつて、その後に被上告人がした手附倍戻しによる売買契約解除の意思表示は効力を生じない旨主張したのに対し、上告人は多額の預貯金を有し本件売買代金の支払に窮することはない旨自認していることに加えて、上告人所有農地の売買の経緯に照らすと、右売買は本件売買契約の履行のためにされたものとは認められないとしたうえ、上告人が本件売買代金の全額を現実に提供したなど特別の事情の認められない本件においては、被上告人の契約解除の意思表示前に上告人が契約の履行に着手したものとは解されないとして、上告人の主張を排斥し、本件農地の売買契約は解除されたものと判断して上告人の農地法上の許可申請手続、所有権移転登記手続等の請求を棄却している。

しかしながら、土地の買主が約定の履行期後売主に対してしばしば履行を求め、かつ、売主が履行すればいつでも支払えるよう約定残代金の準備をしていたときは、現実に残代金を提供しなくても、民法五五七条一項にいわゆる「契約の履行に着手」したものと認めるのが相当であることは、当裁判所の判例とするところであり(昭和三〇年(オ)第九九五号同三三年六月五日第一小法廷判決・民集一二巻九号一三五九頁)、この理は、農地の売買においても異なるところはないものというべきである。しかるところ、原審の適法に確定するところによれば、本件農地の売買契約は昭和五〇年一一月一八日に締結されたが、被上告人は、契約後ただちに農地法三条の許可申請手続をし、許可あり次第残代金の支払と引き換えに所有権移転登記手続及び引渡しをすることを約したにもかかわらず、右約束に反して許可申請手続をしなかつたというのであり、そのため上告人が被上告人に対する仮登記仮処分決定を得て昭和五一年七月二九日本件農地について条件付所有権移転の仮登記を経由したことは、当事者間に争いがなく、更に上告人が昭和五一年九月四日本訴を起こし、昭和五三年二月二一日第一審において勝訴の判決を得たことは本件記録によつて明らかであるから、被上告人がその後本訴控訴審第一回期日(昭和五三年九月一三日)に手附倍戻しによる契約解除の意思表示をする前に上告人は被上告人に対し再三にわたつて本件売買契約の履行を催告していたものというべきところ、上告人の主張と原判決の認定するところによれば、上告人は当時その所有農地の売買によつて取得した代金を含めて多額の預貯金を有し本件売買代金の支払に窮することはなかつたというのであるから、更に審理をすれば、上告人が前記催告の間常に残代金の支払の準備をしており、農地法三条所定の許可がされて所有権移転登記手続をする運びになればいつでもその支払をすることのできる状態にあつたと認定される可能性があつたものといわなければならない。そして右のように認定されれば、上告人は被上告人の契約解除前すでに履行に着手したものと解すべきものであるから、原判決が右の点について事実関係を確定することなく上告人の主張を排斥したことは、履行の着手に関する民法五五七条一項の解釈を誤り、ひいて審理不尽の違法をおかしたものというべく、右違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである。この点に関する論旨は理由があり、その余の論旨について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。そして、本件については更に審理を尽くさせるのが相当であるから、これを原審に差し戻すこととする。

よつて、民訴法四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(谷口正孝 団藤重光 藤﨑萬里 本山亨 中村治朗)

上告代理人脇山淑子の上告理由

第一 手付倍返しの成否について

一、原判決は、一方では、被控訴人(上告人)が本件小切手の振出に関し控訴人(被上告人)に対し訴外菅原に対し代理権を授与したものとは解されない」と判断しながら、他方で「本件契約当日訴外菅原寛へ返還された本件小切手は被控訴人(上告人)の支配内に入つたものと認められる」とし、「手付倍返しに関してはこれを被控訴人(上告人)へ返還したと同視すべきもの」と解した。

いつたい、「支配内に入つた」とは、いかなる事実を指すのであろうか。かかるあいまいな概念によつて手付倍返しの成否を決することは到底納得し難い。

二、原判決が「支配内に入つた」と認定した根拠はつぎのとおりである。

(一) 小切手は訴外菅原が昭和五〇年一一月一八日被控訴人(上告人)から購入した土地代金の一部の支払のため被控訴人(上告人)に対し振出したものであること。

(二) 同訴外人は被控訴人(上告人)に返還された小切手を手交しようとしたが、被控訴人から受領を拒まれたこと。

(三) 同訴外人は右小切手を現在も保管しており、請求あり次第その支払に応ずる旨を言明していること。

(四) 同訴外人は本件契約当時被控訴人(上告人)所有地の売却およびその見返りの土地の取得に関し、被控訴人(上告人)と密接な関係にあり、諸種の手続を代行していたこと。

(五) 被控訴人(上告人)と同訴外人間の前記売買契約につき、本件小切手の額面相当の代金は未払であること。

三、これら五つの事実が原判決のいうとおり認められるとして、これら「支配内に入つた」という結論を引き出すことは経験則上困難であるのみならず(一)ないし(五)の認定自体きわめて一方的かつ独断的である。

すなわち前記(二)について言えば、訴外菅原寛は被上告人が留守中に持参した本件小切手を、上告人に手交しようとしただけではない。被上告人に対しても同様に手交しようとしたのである。それは原審において、菅原寛がつぎのように証言しているところからも明白である。

「斎藤さんの方で受取つてくれませんでしたので、現在は私の金庫の中に保管されたままになつています。」「青柳さんは、その金は斎藤さんに行く金だから受け取れないと、斎藤さんは斎藤さんで受け取つてくれないので、私としてはどう仕様もなく預つているという状態です。」(昭和五四年五月七日菅原寛証言)。

また、前記(四)について言えば、訴外菅原寛は本件契約成立前から上告人と親密な間柄だつたわけではない。本件契約が成立したからこそ、上告人は菅原寛に対しその所有地を売却することに決意し、その契約履行のため密接な関係を持つに至つたのである。土地売買契約の締結に伴ない必要な諸種の手続を不動産業者が代行するのはよくあることで、それだから上告人と菅原寛とが密接な関係にあつたとは解しえない。

本件契約の成否をはなれて、上告人と菅原寛との間には何ら特別の関係はないのであるから、契約当時「密接な関係」にあつたとする原審の判断は全く根拠がない。

四、上告人は訴外菅原寛を支配しうる立場にはいない。それにもかかわらず本件小切手が菅原寛に渡された事実をもつて、上告人の「支配内」に入つた、とする原審の認定は経験則に反し、理由不備の違法がある。

第二 履行の着手について

一、原判決は、上告人が本件契約と同時に鶴岡市所在の田六二六五平方メートルを菅原寛へ売り渡したことを認めながら、これが本件契約の代金支払準備のためになしたものとは認められない、と判断した。

その理由として原判決はつぎの点を挙げる。

(一) 被控訴人(上告人)は多額の預貯金を有しているので代金の支払に窮することはない旨自認している。

(二) 被控訴人(上告人)は以前から当該土地の一部を鶴岡信用金庫支店用地として代替地があれば譲渡する旨承諾していた。

(三) 訴外菅原寛が本件土地を代替地として仲介し本件契約締結に至つたため、被控訴人(上告人)と菅原寛との間に前記土地売買契約が締結された。

(四) 被控訴人(上告人)の税金対策のため両契約を連続して締結したものである。

右の四点のうち(一)については、上告人が原審において提出した昭和五三年一一月一三日付準備書面第四項において自認したことである。たしかに上告人は本件契約の代金の支払にあてるために昭和五二年六月一〇日以来今日まで鶴岡信用金庫美原町支店に一四五〇万円の定期預金をしている。(資料一)しかし、この定期預金は本件代金を支払う準備として上告人が同信用金庫支店用地として鶴岡市美原町二七番三一の土地(乙三)を売却したほか、昭和五二年春乙五ないし八号証の土地を売却した代金の一部を預金化したもので、被上告人と契約する以前から多額の預貯金を有していたのではない。前記準備書面における上告人の自認が右のような趣旨でなされたものであることは、自認の時期やその文意から自明であるにもかかわらず、あたかも本件契約当時から上告人が多額の預貯金を有していたかのように認定した原審の判断は恣意的にすぎる。

上告人は菅原寛に対する土地の売渡しについて、前(二)ないし(四)のような事情が存することを否定しないが、これらの事情は右売買が同時に本件契約代金支払の準備としてなされたことと矛盾するものではない。

本件代金支払の準備のため土地を売り渡すことと、その契約を税金対策のため同時に連続して行なうこととは矛盾しない。また代金支払の準備のため売り渡す土地が事前に交渉を受けていた土地であつても何ら差し支えないではないか、矛盾なく両立しうるものを相反するものとして列挙し、代金支払の準備がない、と認定した原判決の判断はあまりに一面的であり、理由不備の違法がある。

二、原判決は前項記載のとおり上告人が菅原寛に対して土地を売り渡したことが本件代金支払準備のためであるとは認められないとした上、「全証拠によるも本件売買代金全額を現実に提供するなど特別の事情の認められない本件においては、前記供託以前において双方当事者とも本件契約の履行に着手したものとは認められ」ない、と判断した。

しかし、被上告人が手付倍返であるとして金三〇〇万円を供託したのは昭和五三年九月一六日であり、本件契約成立後実に二年一〇ケ月を経過してからのことである。

上告人はこの間被上告人にたびたび履行を請求し残代金をいつでも支払えるよう定期預金にして準備していたばかりではない。昭和五一年七月には、山形地方裁判所鶴岡支部昭和五一年(モ)第五〇号仮登記仮処分命令を得て本件不動産に対し条件付所有権移転仮登記手続を了し、本件訴訟を提起しているのである。

これらの事実は本件証拠上きわめて明白である。これだけの事情がありながらなお、履行の着手がないとする原審の認定は最高裁昭和三三年六月五日第一小法延判決に牴触するものである。

原判決は、「売買代金全額を現実に提供するなどの特別の事情が認められない」というのが、本件契約において残代金支払と所有権移転登記手続とは同時履行の関係にある。また農地法上の許可申請手続も取られていないのに上告人が残代金全額を提供することはできないのが当然であり、原判決のいう「特別の事情」はいたずらに買主に義務なき先履行の危険負担を強いるものである。

原判決の認定は判例に違反しかつ理由不備の違法がある。

第三、上告人が本件契約の解除に応じられない理由

一、上告人は、天保年間に自作農として独立した初代青柳多右衛門から三代続いた篤農家の長男として出生し幼名を繁太郎といつたが、昭和一七年四月二二日四代目青柳多右衛門を襲名して今日に至つている。上告人は農地改革前は自作農兼小作農として六町三反を耕作していたが、いわゆる農地改革により三分の一を失ない、現在では四町歩を自作している。上告人は青年時代から多収穫品評会、苗代品評会などにおいて優秀な成績を挙げ、たびたび表彰を受けたばかりでなく昭和三八年以来種の交配と取り組み、現在でも山間部において作付されている「庄内富士一号」など数々の新品種を生み出して来た民間育種家でもある。(資料三、四の一、五の一ないし一三)

上告人の農業にかける意欲と情熱は、長男新太郎夫婦にも受け継がれている。(資料六の一、二)

二、上告人は昭和五四年度農業白書(資料七)にも見られるように、将来の農業の展望として、農地を「やる気のある農家」に集め大規模営農を目指すべきであると考えており、すでに昭和四九年ごろから大規模農場を見学し、構想を練つていた。(資料八)その結果上告人は現在自作中の約四町歩の水田のほかに更に四町歩以上の水田を取得し、合計七、八町歩の規模で営農したいという計画を建てたのである。本件契約は、上告人が右の計画を実現せんがための第一歩であり、当初被上告人から義父名義の田も合わせて将来は約五町歩を全部手放してもよい、という話を聞いたために鶴岡市美原町地内の宅地化できる田を手放してその取得金を調達しようとしたのである。

従つて上告人は原判決のいうように単なる代替地を求めていたものではない。本件契約成立と同時に上告人は大規模営農実現のために買受けた本件田を耕作する準備を着々と整えてきたのである。

上告人は真面目で熱心な農民であればこそ、本件田が是非とも必要なのであり、契約解除に応じることは到底できない。

第四 結論

以上述べたとおり原判決は誤つているので、破毀されるべきである。

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